父母から一言

            

保育所が学内にあることの意義
鳥井寿夫・秋山(鳥井)珠子

▼学内保育園の有用性について

  私達が1年ほど滞在したアメリカノマサチューッセッツ工科大学(MIT)では、留学生および外国人研究者のための福利厚生制度が極めてよくと整ってており、その重要な一環が、当人の家族に対するサポート体制であった。優れた人材の確保と、その人材の研究活動を整えるためには、家族のケアが欠かせないという、実践に裏打ちされた思想がそこにはある。

たとえば、MIT学内組織であるSpouses & Partnersは、外国人留学生・研究者の家族の支援を目的とし、学内予算化された団体だが、これはMITに滞在していた研究者の妻の自殺をきっかけに生まれたものである。様様な努力の結果、MITはその人材の半数以上を国外から獲得し、周地のとおり世界的な成果を次々と生み出している。

 東京大学が学内に保育園を設けることは、大学が種々の背景を持つ人々に開かれた集団であろうとする自らの姿勢をアピールすることにつながる。

 とくにグローバル化の流れの中で、本学も積極的に世界各地からの人材を受け入れていく趨勢にあり、保育園の存在は、小さい子どもを持つ各国の若い人材を歓迎するというメッセージともなろう。こうした多用な背景を持った人々によって大学の研究が担われること、そしてコミュニティがかっせいかされることは、単に望ましいだけでなく、時代の要請であるとも言えるだろう。

 ただ、こうした保育園の機能を十全に生かす上で、利用の円滑化が不可欠の要素となるだろう。学内保育園の存在に魅力を感じつつ東京大学に加わった人材の子女が、定員オーバー等の事情で入所できないとなれば、その人は期待と現実とのギャップに戸惑いあるいは失望することになろう。

 ことに中短期滞在者、学生など、通常の保育支援を受けにくいケース(年度途中からの利用、就学が「保育に欠ける」理由として認められにくい等々)において問題は深刻である。これらの需要に対し、いかに適切に、かつ経営上の困難を克服しながら応えていけるか、これが大学、保育園、保護者らの課題となろう。

 ▼保育園が構内にあることの教育への効果

 現状では、東京大学に集う学生は比較的狭い年令層に集中しており、多くの学生にとってそれは所与のものとなっている。しかしそれは、様々な年令層によって構成され実社会とはかけ離れた人為的環境である。

 時として、東京大学出身の官僚や政治家の特殊な生活感覚が批判され、揶揄されもするが、彼らの多くが類似の経済的背景(親の平均収入の高さ)を持ち、同様の年令層の中で、類似した価値観を共有しながら育ってきた事を思えば、それは当然の帰結だとも言えよう。

 こうした人々が将来の政策立案や施策を担ってゆく可能性を考えたとき、大学としてその責任を認識し、自らの現状に疑義を唱え、これに揺さぶりをかけることは有意義な試みではないかと思われる。すなわち、多様な人々の集う環境の創出を試みるのである。

 MITでは学内で親子連れの姿を散見し、授乳スペースがいくつか設けられていた。母乳育児を推進している動向では、授乳期間中の学生・研究者・教職員が、教室や研究室や職場に、子どもを帯同することを妨げてはならないという規定を設けている。

 また、ハーバード大学に通う中国人の友人は、次のようなエピソードを興奮気味に語ってくれた。新学期の授業に生後数週間の我が子を連れた女子学生が参加した。授業の冒頭、自己紹介に際して彼女は「一番若いアメリカ国民を紹介します」といってわが子を抱き上げ、教室中から喝采をあびたのだ、と。この友人はアメリカという国のみならず、ハーバード大学の自由度と包容力の象徴だと受け止め、大いに感化されたようだった。人生の若い時期に多様な人々と身近に触れ合う事は、その後の価値観に少なからぬ影響を与えるのではないだろうか。

 学内に保育園を設置するということは、多様な年令層を受け入れる環境を制度的に整えることである。制度化することは、漠然とした雰囲気や、一部の意見ではなく、大学の総意として、あるべき方向を指し示すことである。似通った背景を持つ人々が敷かれたレールに乗って集うのではなく、多種多様な人材がおのずと集える世界をこそよしとすること。保育園の設置にはそうした大学の姿勢によって学生を刺激するという教育効果が期待される。


▼保育園が構内にあることの自己の研究・仕事への効果

 私達の研究・仕事は、構内保育園の存在と切り離せない。私達の場合、子どもの父親は本学の教員、母親は大学院生であるが、わが国の現状では、母親が大学院就学を理由に子どもを認可保育園に預けるけることはきわめて困難である(特に認可保育所が不足している都市部においては)。

 実際、私達も在住の区役所を通して、地元認可園に入園申請をしたところ、「保育に欠ける」理由として(就職ではなく)就学というのはいかにも不十分、ということであった。しかし現実には、乳幼児を育てながら大学院で学習・研究を続けることはきわめて困難であり、母親の周囲にも、子育てのため研究を断念したり、保育園に入れるまで数年の休学を余儀なくされるケースが多々存在している。

 保育園が構内にあり、そこに入所できたことによって、母親は研究・学習を継続する事ができ、父親も安心して仕事(教育・研究)に取り組める環境が得られた。特に通勤・通学先と保育園が近いので、時間を有効に使える上、子どもの急病、ケガ等にもすばやく対応できるメリットがある。

 それにも増してて得がたいことは、自然に恵まれ、交通事故などの心配の少ないキャンパス内に保育園があることである。そこでこどもの健やかな成長を第一義とする明確な方針の下、きめ細やかな保育が行われている。

 昼間、子どもを安心して託せる場所がある。この安心は何ものにも代えがたく、仕事や研究を進める上で大いに効果を発揮している。そして保育園を通しての、保育者、親たち都の関わりの中で、子どもを組み込んだ新たな視点も得られ、関心対象も広がった。これが新たな成果をを生む日も近いと思われる。

 

 

    様々な年令の子と触れ合う素晴らしさ
ジョール智代

                                                        
  長女莉菜は生後5ヵ月から保育所のお世話になり、この3月無事卒園を迎えることになりました。卒園を前にして思うのは、莉菜がこの保育所で人生の大切なスタートを切ることができ、本当に幸いであったということです。

  私はどちらかといえば子どもを厳しい目でみてしまう(大いに反省すべき)母で、莉菜へのお小言は終始つきないのです。そんな母が自負する莉菜の最も素敵なところは、いつも前向きな素直さと、小さい子を思いやるやさしい気持ちです。

  はじめての子をこの保育所に連れてきたときは、はっきり言って不安でした。狭い,汚い,古い。今にも崩れそうな日本家屋に、ガキンチョがうじゃうじゃ。「この小さくて無力な私の宝物が、どこぞのチビガキに踏んづけられてしまう!」とそれは心配しました。

  おすわりが出来るようになった頃のこと。お昼時、保育所に用事があって寄ったことがあります。縁側の日だまりで、なんと莉菜は、一人前に大きな子ども達と一緒のテーブルに座り、それがしごくあたりまえのような顔をして食事をしていました。まだまだ寝たきりの赤ちゃんだと思っていた母は、もうびっくり。そして母は、一丁前に振舞っている利菜を誇りに思うと同時に、莉菜を一丁前に扱ってくれる先生と、何くれとなく世話を焼いてくれる周りのチビガキ達に心より感謝したのです。

  莉菜も大きくなり、おかげさまで、小さな子ども達の面倒を自発的に見られる子に成長しました。でも、これは莉菜だけに特別なことではありません。駒場の子供たちは、皆、まわりの子をいたわるやさしい子どもに育ちます。泣いている子がいれば「どうしたの?」と立ち止まる。おしっこをしてしまった子がいたら、お雑巾を取りに走る。皆、小さいときに大きな子達にしてもらったことを、そっくりそのまま返しているのです。このやさしさは、0から6歳児が、折り重なるように生活する保育の中で育った子達に授けられる、素晴らしい贈り物ではないかと思っています。

  小さな赤ちゃんが「お家ごっこ」の赤ちゃんに使われて、「カワイイデチュー」と無理やりスカーフをを巻かれていたり、[ヨチヨチ」と抱っこされている場面に遭遇すると、受難の赤ちゃんを一瞬可哀相にも思ってみますが、「これも溢れる愛情からヨ! きみももう少し大きくなれば、本物の赤ちゃんで楽しいお家ごっこができるからね」とつぶやいてしまう、私も余裕の母になりました。

≪おことわり≫
これは,旧園舎時代の利用者が書いたもので、新築で広くなった現園舎での実態と異なる描写も含まれていますが、異年齢集団の中での子どもの育ちの良さ(これはいまも変わっていない)が生き生きと描かれており、あえて残しました。読者のご参考になれば幸いです。

 

      
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